
湯之奥金山は、山梨県下部町と静岡県富士宮市の県境に位置する毛無山の中腹(1400〜1650m)に広がり、中山・内山・茅小屋の3金山を総称した名称である。
操業年代はおよそ16世紀から江戸中期ころまでとされており、遺跡からはそのことを裏付ける鉱山道具などが数多く出土し、往時の金採掘が行われた面影を残している。
遺跡はかなり急峻な尾根に広がるが、その尾根には露天掘り跡、やや時代が下る坑道掘り跡が存在し、その下に流れる金山沢の両岸に残された作業、生活区域などが発掘調査された。更に湯之奥金山と湯町の間にある湯之奥の集落には、国の重要文化財である門西家住宅があり、この門西家は湯之奥金山と深い関わりを持つと認識されていた。また同家に伝わる金採取に使われたフネ2基とセリ板11枚の道具は極めて貴重な資料で、まさに金山の存在を実証するものであった。更に同家に多く残されている古文書は、湯之奥金山経営の姿や、門西家と金山の関係を垣間見ることのできる貴重なものであり、これらの資料の存在も手伝って、当時の金山の姿が解明されていった。
遺跡現場からは生活道具、鉱山道具が混じって発見され、金鉱石を粉成した鉱山臼の上臼・下臼、また磨り臼や、生活に使われた陶磁器類などが散らばっている姿を見ると、誰の目から見ても金山についてその存在を疑う余地はない。
当時ここで暮らした人々は、作業の場と生活の場を同じくした鉱山村(テラス)を形成していたことが窺われるが、人々の中には、鉱山技術に精通した技術者集団「金山衆」の存在もあった。彼らは金山経営を行うとともに掘り子などの人足を指導し、鉱山作業を指揮していたと思われる。(この鉱山技術によって湯之奥では鉱石中に含まれている金を採取する山金作業が、全国的に見てもかなり早い段階で行われていた。)
鉱山での作業は大きく四分できる。採鉱作業から始まり、その鉱石を砕くための粉成、金だけを集めるための汰り分け、金を精錬するための灰吹である。これらの作業工程を経て、金は装飾品やお金など様々なものに形を変え人々の間に広がっていった。なかでも甲斐領国内において戦国時代から江戸後期に至るまで流通した「甲州金」は湯之奥など甲斐金山の産物といえる。